hiro-chinn の日記

医者として、日々の生活の中で思ったこと経験したことを、書かせていただきます。

震災後10年

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 おはようございます。

 

3月11日が近くなって、テレビからは、10年前の番組が増えました。

当時の映像を見たり、現在も震災の記憶や生活に苦しんでいる人たちの様子を見ると、かける言葉がありません。

 

診療中長く通ってくださっている患者さんが、つらい出来事を話してくださる時が時々あります。

年配の方は、お子さんの話が多いと思います。

若いのにも関わらず、「息子が、くも膜下出血で倒れて病院に運ばれて今意識がないんだよ。」

とか、

「息子が、最近体調が悪くて病院にかかったら胃癌だってさ。」

などと、深刻な内容を突然に言われます。

多くのかたは私にコメントを求めているのではなく、ただ話して少しでも気持ちを和らげたいだけなんです。

「長男が嫁と一緒に家を出ていって、今は一人暮らしで何でも自分でしなければいけないので、健康を保つために病院に通っている。」

とか、

独居老人や老老介護の話も多く聞かれます。皆さんは、診察室の中では明るくむしろ前向きに話されます。

年配のかたは、弱音を吐かずにちゃんと体面を保つよう教育を受けておられるし、これも日本人の忍耐強さの表れだと思います。

しかしながら、心の中には誰からもうかがい知れない苦悩が、確かに見受けられます。

 

 

震災で突然に大切な家族、特に小さいお子さんを失くすというのは、耐えられない衝撃だと思いますが、それに近い苦痛を受けながらも、お年寄りが一人で耐えている姿を見ますと、私には愛おしさすら感じます。

震災からの復興といいますが、心が元通りになるなんてことは、決してありません。

自身が死を迎えるまで、ずっと続きます。

 

我々は、幸か不幸か人々の生死に直接携わります。

たくさんの方々の、様々なご臨終に立ち会ってきました。

そのかたが不可避な病死であっても、最後に苦しんでなくなるか、安らかに息を引き取るかは、ご家族にとっては大変大きな差になります。

津波に飲まれて苦しんでなくなったであろうと想像されるとその苦しみは、何倍にも強くなるでしょう。

逆にお年寄りが、ゆっくり安らかに家族に看取られて亡くなったということであれば、どなたも納得されます。

同じ”死”でもご家族にとっては、天と地です。

我々は、患者さんの臨終に際してこの点にかなり配慮します。

いきなり死亡宣告をできるだけしないよう、駆けつけてきたご家族を何回も病室に呼び入れて説明し、最終的に心電図モニターをお見せして臨終の時間を宣告します。

ある意味儀式なんですが、それにはとりわけ重要な意味がご家族にとってあります。

まず肉親が孤独な状態ではなく、自分たち家族に囲まれてこの世を去っていけたこと。

そしてその場にみんな一緒に立ち会えたということ。(我々は、できるだけご家族が皆さん集まってから死亡宣告します。)

そしてほかの親戚に最後の様子を話して聞かせられるということ。

そして何よりも、目の前の大切な肉親の最後に、自分が立ち会えたという安堵感を得ることができます。

 

 

震災では、このようなことが一切できません。

震災で犠牲になったかたのご家族の心情を思うと、人の死に慣れているはずの私でも、自然に涙が出てきます。‥‥‥

時間がそのかたがたの苦悩を、少しでも和らげてくれることを祈るだけです。

 

 

 震災後10年に際して思うことを書かせていただきました。

 

 

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